1950年創業志賀塗装とは?
【序章】学生時代
私は1973年2月21日に、福島県はいわき市にて生まれました。
小さい頃から、自宅の横が塗装工事の会社をしていましたので、
とても人の出入りが多く、いつもいろんな人がまわりにいました。
小さい頃は、環境のせいも手伝って近所の壁を真っ黄色に塗ってみたり、
お騒がせした幼少だったように思います。
しかしながら、塗装についての興味は特に抱かず、
もちろん嫌いというわけではありませんでした。が・・・。
その後普通高校に進みました。
高校時代、大学時代と吹奏楽や交響楽団に所属し、あっという間に時間が過ぎておりました。
【第1部】社会人としてスタート(平成7年〜平成9年6月)
何のために働くのか?と納得する前に、社会人の仕事の初日はやってきました。
淡々とお客様回りや長年お世話になった先生を回り始めると、
みんな一様に「よく地元に戻ってきたね~。お父さんも喜んでるよ、良かったね~。」と
口々に言われ、なにかそれだけでとても喜ぶ方が多かったので、
自分は福島に戻ってよかったなぁーと思うようになっていました。
【第2部】混乱期(平成9年7月〜平成12月)
ここから3年は、おそらく「夜明け前」と表現できればかっこよいのだが、
振り返ってみると、どうしようもない外部環境に会社が巻き込まれていった時期でした。
(1)公共工事の激減
(2)民間工事の受注単価の安価受注の連続
倒産といったら大げさになるが、本当にそれくらいの勢いで
すべての事がうまくいかなくなった時期となった・・・。
なんせ前年度比率で受注高や会社の利益がこの先全く読めなくなったのである。
【第3部】決意(平成12年年末〜平成13年3月)
この年のお正月、私は家族と過ごさなかった記憶がある。
激動の年だったこともあり、一人で考えたいと思ったからだ。
いや、正直に言うと、親戚からも一人にしてしまった母を
正面から見続けることができなかった。
『ほんと、ごめんね、俺、戻って来るの、やめときゃ良かったね・・・ごめんね・・・』
そんなことを思いながら、ホテルでぼんやりしながら、父の最期を思い出していた。
仕事や会社について一言も私と話す事がなかった父は、
どんな思いでこの世から去っていったのだろう・・・。
まして、最後の数ヶ月は寝たきりで、何かを伝えたかったはず、
その思いを感じて自らの考えで戻ってきました。
【第4部】「始動」から「創業期」(平成12年年末〜平成13年3月)
自分がしたい生き方をできるのは
「正直な仕事 世の中に役立つ仕事→マスコミ業界の仕事だけ」と思っていましたが、
この業界でも正直に生きると決めた瞬間、自分がこの業界でもこの生き方を実施していくと決心したので、
もう一度外部環境を冷静に見ることが出来、情報を収集することに専念しました。
すると、今まで心にひっかからなかった新しい情報や出会いがあり、
私の心はワクワクとドキドキしかありません!!
毎日毎日飛び込んでくるすべての出来事が、たとえTVCMでも楽しく見えるのです!
【第5部】創業期2(平成14年〜平成16年)
自分の大事にしたい生き方・人生の目的を追求するために必要なことが、
今の職業から塗装と関連ある「住宅リフォーム」でできると確信した私は
連日情報収集に日夜時間を取りました。
まずは、新聞に出てくる優秀な企業さんに
突撃訪問の約束を取り付けどんどん面会にいきました。
この時期は、ほとんど寝てませんでした。
本当に多くの人々のご協力により、
この業界の現状、問題、将来性などビルの上から眺められるくらいに、
この業界の状況は飲み込めるようになって来ました。
(改めてよいツキの力=「出会い」の力が「自分の人生力」度をアップしたと言っても過言ではないでしょう)
さてこの住宅リフォーム業界。
成長分野とTVでは連日もてはやされていますが、なんと「悪徳業者」の代表格と言われている業界だったのです!!
それもそのはず、これだけ市場が予想されているにも関わらず、
王者がいない珍しい分野でした。
よしだったらやれるぞ。
順調に人のやり取りやイベントを行える状態になってきていた時でしたので、
TVの報道によるマイナスイメージは必要以上にお客様に不安をあおるものであり、
とてもいたたまれない気持ちでした。
(何でもそうでしょうが番組である以上、話題性がある方が正直にやっている業者さんを映すより面白いですものね)
【第6部】「人の育成が必要だ!」(平成14年〜平成16年)
様々な出会い
(このころ私の人生のメンターともいえるお二人の方々にお会いしました。
お一人目は、渡辺経営コンサルタント事務所、代表の渡辺先生と、
お二人目は、株式会社マルコシの木原代表です。
私が目指す将来の経営者像として、今現在もお二人から吸収中です)や
時代の流れもありとても順調だと感じていたが、大きなミスをしてしまっている事に気付いた。
それは「人材の育成」が後手に回ってしまった事である。
【第7部】売り上げは上がったけれど失ったもの…そして気づき…。(平成17年〜)
平成13年から始まったリフォーム事業部は、気付いてみると丸4年を越えていました。
このころはまさに競合会社も出店してきて、
本当に、にわかリフォーム会社が市内でも大変増えました。
それは、日本の法律上、リフォーム会社は、小規模であれば、
誰にでも開業できてしまうので、いわき市にも全国から業者さんが沢山参入して来ました。
本来であればここで一番得をするのはお客様なはず・・・
しかし、一番この時期に不安だったのは、そうです。
消費者の方々だったのではないでしょうか・・・。
ショールーム相談会
毎回大勢の相談客がご来場されました。情報を提供する事を目的に…
【第8部】〜全編〜改革の幕開けは、新卒3人の入社から(平成18年4月〜)
この年は、4月に3人の新卒《女子3名》、
7月末までに2名の中途採用の方々に入社して頂きました。
単純に増えたな~とミーティグの度に感じていましたが、
新規で入社した方々の育っていく将来はワクワクするものでした。
これでお客様にお役に立てる・・・
会社が出来るよう願って数ヶ月たったある日、
経営者として先輩である小西社長が来社されました。
スタッフ教育をして頂き、お寿司を食べながら昼間の振り返りを
小西社長は、言いづらそうにゆっくりと話を始めました。
それはひと言ひと言・・・待ったなしの忠告でもありました。
【第9部】〜中編〜気持ちは整った!いけるかも…(平成19年4月〜)
平成19年は、事業計画で言うと、
ついにいわき市に3店舗目の出店が予定されている年です。
新卒も新たに3名入社予定で、人数も体制も整いました。
よしこれでいけるかも、きっと工事でもリピーターが沢山来る・・・
しかし、1月2月の受注そのものが少ない、・・・。
OBのリピーター工事も思ったほど伸びず、数字的にも未達成が続きました。
そんな中でやっと南店が出店できました。
【第10部】〜後編〜目指せ、リフォーム業界のリッツカールトン!(〜平成21年3月)
ホテル業界で、お客様の感動を作り出し、華麗とも言えるサービスを提供することで有名な、
リッツカールトンホテル・・・
お客様から繋がりを求められる存在を目指す姿
(誕生日の時のホテルスタッフの心づくしには毎年感動を覚えます。)は、
まさに弊社のあるべき姿であると実際に宿泊して感じた事がありました。
それ以来、リフォーム業界のリッツカールトンホテル!を合言葉に情報収集を始めています。
【塗装事業部編】〜志賀塗装株式会社のあゆみ〜
創業期(1950年〜)
弊社は昭和25年6月に先代の社長志賀昌男が
東京都江東区亀戸町に志賀組として設立し、塗装工事業を始めました。
仕事内容は
プラント塗装・電力塗装工事や石油タンクの重防食塗装を主力工事として行ってきました。
その後、昭和39年4月に先代の社長が地元である福島県いわき市で塗装業を通じて、
いわきの人々に貢献し、地域密着の企業作りをしたいということで、現在の場所に志賀塗装として開設しました。
ちょっとコラム
先代の社長である志賀は、
地元でも四代以上続いた醤油製造業を営んでいたのですが、
父の事業の行き詰まりもあり、公務員として地元に就職しましたが、
起業をしたいと夢が忘れられず!背水の陣で東京へ出ていったということです。
住み慣れた地元を離れて生活できる”源”は、
必ず地元へ戻るという志があったからにほかなりません!!
起業期(1964年〜)
東京と比べると仕事は少なかったのですが、この頃いわき市では小名浜港の開発が進み
多くの船の出入りや海岸線の周辺の平地にたくさんの石油タンクが建設されていました。
そのため、船の船底に貝が着きにくい塗装の依頼や石油タンクの重防食塗装の依頼、
公共事業からの依頼など、多くの仕事をいただきました。
特に石油タンクの塗装の依頼は、タンクが塩害や潮風の影響により、
表面が錆びて腐ってしまうため、定期的に塗装の依頼をいただいていました。
なぜ、このように大きな仕事の依頼が長年にわたっていただけたかと言いますと、
東京で行っていた塗装技術がそのまま適応できたためと、
昭和43年から第一種ケレン作業と呼ばれるサンドブラスト工事を導入したためです。
この工事は錆びた鉄板に向かって、
高圧の砂をコンプレッサーで噴出し、表面についている錆を落とすという工法です。
また、この工事に特殊なサンドブラスト機が必要となるのですが、
当時、この近辺では弊社しかそのサンドブラスト機を
持っていなかったことも大きな要因です。
ちょっとコラム
小名浜港の開発時期に、先代の社長の読みが当たったのは確かなのは間違いありませんが、
それよりも大きな仕事をいただけた要因は、伊藤氏、池田氏、松本氏をはじめとする
同郷の同級生のお力添えがあったからに他なりません。
本当に、同級生の力で
立ち上がった会社であると言っても過言ではありません。
高度成長期(1973年〜)
サンドブラスト工事を導入後、昭和47年に有限会社へと組織を変更しました。
その後、大手建設会社の三菱建設様や常磐開発様などと出会い、
建築塗装の分野へ塗装の分野を広げました。
これらの出会いにより弊社は、
塗装することで環境を維持(ライフラインの保持)する分野と共に、
民間建築を通してお客様に喜ばれる塗装工事があることを知り、
これ以後建築塗装の分野へ事業をシフトして行きました。
ちょっとコラム
昭和48年〜昭和の時代は
まさに高度成長による社会基盤の整備の高まりも手伝い、
仕事が追いつかず(今になってみると羨ましいかぎりですが)
職人さんも手配に苦労した時代で、残業や早出も多かったそうです!
本当に、この時代の職人さん達の支えがあったからだと感謝します。
建設不況時代
平成10年頃から、建設業が不況に陥り始めたとともに、
平成10年10月に茨城県ひたちなか市に茨城支店を開設しました。
その後、茨城支店は茨城開発事業協同組合という復社で構成された組合を作り、
平成13年に茨城県官需適格組合員認定(ゼネコンの資格)を受けました。
さらに、平成14年に次のステップとして、
特定建設業の許可も頂きました(塗装工事担当として参加)
これにより、ひたちなか市に建設された
火力発電所からの塗装の依頼を受けてきております!!
そんな、中リフォーム事業部は平成13年からスタートしております。
先代の社長がガンで亡くなり、
母一人では会社を運営することが困難だったため、
現在の最高経営責任者の息子の晶文が内定していた会社を蹴ってまでも、
実家に戻って塗装業を手伝いました。
全社一丸となって苦労しながらも会社の職人さん達と協力しあい、
公共事業や電力会社の鉄塔の塗装、原油を備蓄するためのタンクの内部塗装の受注を頂くことができ
現在に至っております。
ちょっとコラム
平成のバブルの崩壊は、例額なく建設業まで押し寄せました。
まして、ゼネコンさんや公共事業をお客様としている弊社にとっては大打撃となりました。
まさにH9年〜H12年は、同業他社も倒産していく中で、弊社も転機を迫られる時でした。
そんなおり、少しでも受注先をと思い、
現社長と専務の出身地である茨城県のひたちなか市に支店開設の手段をとり、
他社と連合を組んで受注活動をスタートしました。
当初は鳴かず飛ばず…このままでは…。
重い雰囲気のH12年の年末でした。